あの日バッティングセンターで見た“怪物”のスイングが、頭から離れなかった。
あの破裂音。打球の軌道。余裕の表情。
そして、何より――見たこともないフォームで、見たこともないボールの飛び方をする“少年”の存在。
名前はレオ。
それ以外のことは、何ひとつ分からない。
年齢も、学年も、どこの高校なのかさえ。
でも、一つだけ確信できることがあった。
あのバットスピードと、あのスイングは、絶対に素人じゃない。
甲子園?
プロ?
いや、それでも説明がつかない。
……あれは、高校生が持つ技術じゃない。
そんな思いを抱えたまま数日が過ぎた。
野球部の中に広がる噂
「颯、バッセンの動画見たか?」
部室に入ると、後輩の三浦がスマホを片手に興奮していた。
「動画?」
とか言いながら、僕はすでに知っている。
あの時、誰かがスマホを構えていたのを思い出す。
三浦は僕の前でスマホを再生した。
画面の中で、レオが天井へ吸い込まれるような弾道を放っていた。
角度のない、真っ直ぐなライナー。
一般人が撮ったはずの動画なのに、スイングの速さは隠しきれない。
コメント欄には、
「バケモンじゃん」
「こいつどこのドラ1?」
「これ高校生?」
「プロ入り前の動画?」
……などと書かれていた。
僕も同じ気持ちだった。
でも一つだけ違った。
僕は実際に目の前で見た。
“本物”の音を聞いた。
「颯、これ千葉のバッセンらしいよ」
「え?」
「スイングの後ろに写ってる壁のポスター、俺ん家の近所の店と同じだった」
胸がざわついた。
――やっぱり、本当に存在するんだ。
「で、さ」
三浦が言いづらそうに続けた。
「噂だと、監督が“誰か”と会うらしい」
僕は思わず立ち上がった。
「それ、レオってことか?」
「かもしれねぇって、野球部内で話題なんだよ」
胸の奥が熱くなるのを感じた。
もしも。もしもあの怪物が本当にウチの高校に来るなら。
歴史が変わる。チームが変わる。
そして……僕自身の野球人生も、きっと変わる。
そんな予感が、突然リアルに姿を見せた。
監督の呼び出し
放課後。
グラウンドへ向かおうと靴を履き替えていた時、監督室のドアが開き、監督が顔を出した。
「朝比奈、ちょっといいか」
野球を始めて十年以上になるが、このトーンの監督に呼ばれたのは初めてだった。
「……はい」
緊張を悟られないようにしながら監督室に入る。
「紅白戦、わかってるな?」
「はい、調整してます」
「それとは別に……お前に見てもらいたい人物がいる」
やっぱりだ。
けれど、平静を装う。
「見てもらいたい人物……ですか?」
監督は小さく頷く。
「今日の紅白戦、ひとり“見学”が来る」
「見学?」
「まぁ……すぐに分かる」
いつもならすぐ説明してくれる監督が、今日はそれ以上話さない。
それが逆に不気味だった。
僕は深呼吸してから、監督室を出た。
――レオかもしれない。
いや、絶対レオだ。
だって、あのスイングを見て放っておくはずがない。
紅白戦。始まる前から空気が違った。
アップをしながら、選手たちはざわついていた。
「今日さ、見学来るんだろ?」
「誰だよ、プロ志望?」
「外部? スカウト?」
僕は言えなかった。
本当は“名前を知っているかもしれない存在”を。
試合開始の整列を終え、ベンチに戻る。
そのとき――
見学席のフェンスにもたれていた黒いキャップ。
真っ黒なパーカー。
腕を組んでこちらを見ている、あの瞳。
息が止まった。
――レオ。
バッティングセンターにいた“あの少年”が、まっすぐこちらを見ていた。
試合中のアクシデント
紅白戦は序盤から接戦だった。
僕はAチームの三番センター。
今日は状態も悪くない。
だが、四回裏の守備。
センターフライを追っていた一年生の外野手が、着地の瞬間に足をひねって倒れこんだ。
「大丈夫か!?」「捻挫だ!」
ベンチがざわつく。
その選手は、一度立ち上がろうとするも、すぐに崩れ落ちた。
監督が腕を組んだまま、静かに呟く。
「……代わりがいない」
その言葉が落ちた瞬間、空気が固まった。
練習試合ではない。紅白戦。
本来、選手は固定で人数が決まっている。
すると監督が、突然フェンスの方へ歩いていった。
レオの方へ。
「ちょ、監督!まさか――」
誰もが止める間もなく、監督はレオの前で立ち止まった。
「レオ。いけるか?」
レオは肩をすくめ、苦笑した。
「……見学じゃなかったの?」
「予定変更だ。必要なんだよ、お前が」
レオはため息をついたあと、ゆっくり立ち上がる。
「わかった。やるよ」
マウンドにざわめきが走る。
「監督!外部の人を紅白戦に出すなんて!」
「危険ですよ!」
「だれなんですか、この人!」
監督は一切振り返らない。
ただ短く言い放った。
「文句は、打球を見てから言え」
私服のままバッターボックスへ
レオはジャージでもユニフォームでもなく、ただの黒パーカーとジーンズ姿。
それでも違和感がなかった。
むしろ――そのままの格好のほうが似合っていた。
バットを手渡されると、一度軽く素振りをした。
その瞬間、グラウンド全体の音が止まった気がした。
スイングスピードが明らかに僕たちとは違う。
金属音すら鳴っていないのに、風切り音だけで周囲が圧倒されていた。
投手が震えているのが見えた。
無理もない。
「バッター、レオ・ミナト……え? ミナト?」
審判が戸惑いながら名前を確認する。
レオは何も言わず、バッターボックスに入った。
一球目、ストライク。
レオは動かない。
二球目、ボール。
三球目、ボール。
――四球目。
ピッチャーが外角低めに逃がそうとした瞬間、
レオの体がしなり、金属バットのヘッドが鋭く走った。
カッッッ!!
グラウンドの空気を切り裂く爆音。
打球は瞬きをするより速く、センターバックスクリーンのさらに向こう――場外へ消えた。
「……は?」
「ちょっ……」
「おいおい、マジかよ……」
声にならない悲鳴が、スタンドとベンチから漏れる。
僕も膝が震えた。
ただ一人、監督だけは帽子を深くかぶり、静かに笑っていた。
「ほらな」
その一言が、練習試合の空気を一変させた。