千葉駅前のロータリー。
朝の光がガラスの壁面を反射し、マイクの音を切り裂くように風が吹き抜けていく。
春から初夏へ向かう空気の中、通勤客の流れは冷たく速い。
「おはようございます!」
何度も繰り返すうちに、声のトーンも、息の吸い方も覚えてきた。
最初の頃は、人の目が怖かった。
けれど今は違う。
人の無関心が、静かに沁みるようになった。
通り過ぎる背中にも、それぞれの生活がある。
僕の声が、そのどこかに届けばいい――そう思うだけだった。
手伝ってくれている学生の結衣が、笑顔でチラシを配っている。
「朝から元気出ますね!」と声をかけるその姿を見て、
若い人がこうして動いてくれることの意味を感じた。
後ろでは花屋の斎藤さんが、折りたたみの机を直している。
その手つきが、妙に丁寧でやさしかった。
僕はマイクを握り直した。
「小さな声を拾い上げる。僕は、それをしたいと思っています。」
その瞬間、通り過ぎる中年の女性がふと立ち止まり、
短くうなずいた。
それだけで、胸の奥に火がともる。
演説が終わる頃には、もう汗で背中が重くなっていた。
街の音が遠くに霞み、空だけがやけに広かった。
昼過ぎ。古い商店を改装した小さな事務所に戻る。
壁のホワイトボードには「午後:南口」「夕方:商店街」と書かれている。
僕はペンを持ったまま、立ち尽くしていた。
スマホが机の上で震える。
通知を開くと、短いメッセージ。
――『本日の通行量、昨日より17%増。推奨話題:子育て支援』
指先が止まる。
静かな部屋に、心拍だけが響く。
僕はスマホを伏せ、深呼吸をした。
画面の光が壁に反射して、一瞬だけ部屋を照らす。
誰も知らない。
この光の意味を、僕以外の誰も。
「昼ごはん、買ってきました!」
ドアが開いて、結衣が顔を出す。
手にはコンビニの袋。
「先生、疲れてます? 今日、ちょっと顔がこわいです。」
「いや、考え事してただけ。」
笑うと、結衣はホッとしたように頷いた。
斎藤さんが笑いながら言った。
「若い子たちが見てるんだから、もっと元気出してよ。
政治は根性より継続だから。」
「はい、わかってます。」
軽く頭を下げながら、
自分が抱えている“静かな秘密”が、ふと重くなった。
午後。
商店街に立つと、焼き鳥の匂いと、遠くのラジオの音が混じっていた。
風の向きで声が跳ね返り、言葉が街に溶けていく。
チラシを配る結衣の声。
「こんにちは! 地域の活動について話しています!」
僕はマイクを握り、目の前の人を見た。
通りすがりの若い母親が、ベビーカーを押して足を止めた。
「子育て支援って、どんなこと考えてるんですか?」
少し驚いて、
「えっと、保育園の待機児童を減らすことや……」
言葉を探している間に、
後ろから子どもの笑い声が響いた。
母親は微笑んで、
「そういうの、ちゃんと考えてくれる人がいるだけで救われます。」と呟いた。
その言葉を聞いて、
スマホの中の“推奨トピック”なんてどうでもよくなった。
僕はただ、「ありがとうございます」と言って頭を下げた。
夜。
街頭を離れ、静かな路地を歩いて帰る。
ふと、ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。
手に持ったマイクの跡が、まだ指に残っていた。
事務所に戻ると、真帆が待っていた。
机の上にコーヒーが二つ。
カップから立つ湯気が、部屋の灯りにかすんでいた。
「今日もお疲れさま。」
「……ありがとう。聞いてたんですか?」
「少しだけ。駅前で。」
真帆は穏やかに笑った。
「人の声、増えてきましたね。」
「分かるんですか?」
「うん。あなたの声が届くと、街の空気が少し変わる。」
その言葉が、なぜか心に残った。
僕は彼女の隣に座った。
外の雨音が、かすかに聞こえていた。
「……これでいいんですかね。僕、何をしてるんだろうって思うときがある。」
「いいと思いますよ。」
真帆は窓の外を見ながら言った。
「正しいことより、まっすぐなことを選んでる。
それだけで、続ける理由になります。」
彼女の声が柔らかく、
その静けさの中に、言葉にできない理解があった。
画面の隅で、ひとつのアイコンが点滅している。
誰にも言えないその光を、僕は目を逸らさず見つめた。
夜更け。
事務所の照明を落とし、机に残る資料を片付ける。
外はもう雨が上がっていた。
スマホの画面が一瞬だけ光る。
短いメッセージが表示される。
――『今日の演説、平均滞在時間12分。反応指数上昇。』
僕は画面を閉じ、息を吐いた。
「ありがとう。」
そう呟くと、
スマホの光がゆっくりと消えた。
壁に貼った地図の上、ピンで留めた街の名前を指でなぞる。
一か所ずつ、思い浮かべる。
今日声をかけてくれた人たち。
チラシを受け取ってくれた学生。
立ち止まってくれた母親。
数字にはならないけれど、確かに残るもの。
その一つひとつが、僕を動かしている。
翌朝。
曇り空の下、いつもより早く家を出た。
鞄の中にマイクと、折り畳みの台。
そして、小さなメモ帳。
1ページ目の端に、鉛筆で書かれた文字がある。
――「街の声を、拾い集めて。」
誰の字か分からない。
けれど、その言葉を見つめるたび、
胸の奥で小さな灯がともる。
その光は、誰にも言えない秘密。
それでも、僕にとっては確かな希望だった。
(第3話 了)