千葉駅前の朝は、いつもより冷たかった。
マイクを握った瞬間、喉の奥に鋭い痛みが走る。
一度、咳をこらえたが、二度目で声が出なかった。
喉が枯れていた。
昨日までの疲労が一気に押し寄せる。
スタッフが駆け寄る。
「大丈夫ですか? 声、全然出てないです」
彼らの顔に焦りが広がる。
明日は商店街の大規模演説。
このタイミングで、声が出ないなんて。
僕は水を飲み、マイクを握り直した。
「……すみません、今日は……」
言葉が途切れる。
それでも続けようとする僕を見て、
彼女――真帆が、静かに口を開いた。
「代わりに、私が話します。」
その言葉に、空気が止まった。
みんなが驚いて彼女を見た。
真帆は視線を逸らさず、まっすぐに僕を見ていた。
「無理だよ。政治の演説なんて簡単じゃない。」
声がかすれていたけれど、何とか言葉を絞り出した。
真帆は首を横に振る。
「あなたの言葉、毎日聞いてます。
原稿も、内容も、私なりに覚えてる。
話したいこと、分かります。」
その静かな強さに、僕は言葉を失った。
彼女の瞳には、迷いがなかった。
……本気なんだ。
「それでも、失敗したら――」
「失敗したら笑えばいいじゃないですか。
でも、止まるのはもっと怖いです。」
その夜、事務所の蛍光灯の下。
彼女は演説原稿を何度も声に出して読んでいた。
文の切れ目、間の取り方、言葉の強弱。
僕は声が出せず、ノートに赤ペンで指示を書き込む。
“ここで笑う”“少し間を取る”“目を合わせる”。
真帆は頷き、また最初から読み直した。
気づけば終電が過ぎていた。
彼女の声は少し掠れていたけれど、
その響きには確かな熱があった。
僕はその声を聞きながら、
いつの間にか、喉の痛みを忘れていた。
翌朝。
駅前ロータリーには、いつもより多くの人がいた。
ポスターを貼る音、スピーカーのチェック音、
そして緊張で少し震える彼女の呼吸。
僕は声を出せないまま、少し離れた場所から見守った。
真帆がマイクを握る。
最初の一言が風に乗る。
「みなさん、おはようございます。」
その瞬間、ざわついていた空気が静まった。
真帆の声は不思議と通っていた。
少し高くて、柔らかい。
彼女は視線をゆっくり上げ、続けた。
「政治って、むずかしい言葉が多いけれど、
本当は“日々を少し良くする”ための仕組みなんです。」
足を止める人が増えていく。
サラリーマン、学生、ベビーカーを押す母親。
その一人ひとりの顔を、真帆は丁寧に見つめていた。
途中で言葉が詰まりかけた瞬間、
「大丈夫、焦らなくていい」とスタッフが小さく囁いた。
真帆は息を整え、再び話し始めた。
「私は、彼の活動をそばで見てきました。
小さな声を拾い上げる。
その思いで、毎日ここに立っています。」
拍手が起きた。
その音を、僕は胸の奥で受け止めた。
喉が焼けるように痛かった。
けれど、涙がこみ上げてきた。
彼女の言葉は、僕の言葉よりもまっすぐだった。
いや、あれはもう彼女自身の言葉だった。
演説が終わると、SNSが騒がしくなった。
「今日の女性スタッフ、すごい」「涙出た」「初めて政治の話が心に届いた」
その投稿が瞬く間に拡散された。
スタッフがスマホを見ながら驚く。
「リツイートが1000超えてます! 動画、もう再生3万回ですよ!」
僕は喉の痛みも忘れて笑っていた。
真帆はマイクを持ったまま、放心したように立っていた。
「……怖かった。でも、途中で変わったんです。」
「変わった?」
「“話してる”っていうより、“届いてる”って感じたんです。」
僕はうなずいた。
そして、心の中で静かに思った。
――届いたのは、君の声だ。
数日後。
商店街の通りで、通りすがりの人が声をかけてくれた。
「この前の女の子の演説、よかったよ。」
「もっと話してほしいね。」
そんな言葉が続いた。
いつの間にか、真帆は“前説”を任されるようになった。
彼女が話すと、自然と人が集まる。
空気が柔らかくなり、笑いが増えた。
そして気づけば、
僕はその光景を見ながら、少し胸がざわついていた。
「ねぇ。」
ある夜、事務所を閉めた帰り道。
真帆が急に立ち止まった。
「あなたの夢、少しだけ、私の夢になってるかもしれない。」
街灯が二人の影を伸ばしていた。
僕は声が出ないまま、ただ笑った。
ありがとう、と口の形だけで伝える。
真帆は、少し照れたように笑った。
その笑顔が、胸の奥で波紋を描いた。
もう、言葉はいらなかった。
夜、家に帰る。
喉の痛みはまだ残っている。
けれど、声が出なくても不思議と不安はなかった。
スマホが震えた。
通知には、こう表示されていた。
『街頭演説:観覧者数 1,800人、SNSトレンド第3位』
僕は小さく笑い、画面を閉じた。
窓の外、街の灯りが滲んで見えた。
あの日、声を失った代わりに――
僕たちは“ひとつの声”を手に入れたのかもしれない。
(第4話 了)