朝の駅前は、冬の風が強かった。
マイクを握る手がかじかみ、言葉が息に変わって白く漂う。
それでも僕は立ち続けていた。通り過ぎる人たちの中に、昨日より一人でも立ち止まる人がいれば、それだけで意味があると思っていた。
そんなある日、ひとつの封筒が届いた。差出人は「〇〇党・政策委員会」。
薄い紙一枚。だがそこには、僕の半年間の活動を大きく変える提案が書かれていた。
「正式に推薦を検討したい」
その一文を見たとき、胸の奥に熱と重さが同時に落ちた。
無所属で始めた活動に、政党の名がつく。
“現実を動かす力”を持つということだ。
組織と理想のあいだで
夜、事務所の照明だけが明るかった。
机の上のノートパソコンから、AI《POLITY》の淡い青い光が漏れる。
『推薦を受けた場合、当選確率は42%上昇します』
機械の声はいつも通り冷静だった。
「42%か……」と僕はつぶやいた。
数字だけ見れば、悪くない話だ。だがその下に続く一行が、胸に引っかかった。
『ただし、政策表現の一部を党方針に合わせて修正する必要があります』
つまり、“自由に語れなくなる”ということだ。
ドアを開けて真帆が入ってきた。コートを脱ぎながら僕の顔を覗き込む。
「どうしたの? 難しい顔して」
封筒を差し出すと、真帆はしばらく黙って読んだ。
「……推薦?」
「そう。党からの打診だ」
「受けるの?」
その問いにすぐ答えられなかった。
「無所属のままだと、できることが限られる。現実を変えるには、力がいる」
「でも、その“力”って、誰のためのもの?」
真帆の声は静かだったが、目は真っすぐだった。
「街のため、じゃないの?」
その言葉が痛かった。
僕は、どこまで自分の言葉を信じているのだろうか。
街の声とデータの声
翌日、僕はAIの提案を見ながら街を歩いた。
POLITYは、商店街で拾った会話の断片を自動で整理し、政策提案に変換していた。
『行政手続き簡略化に関するモデル法案、過去提案例14件』
『中小企業向け助成制度、該当支援金額推定2億円/年』
どれも正確だ。だが、どこか冷たい。
「数字じゃなくて、顔が見える政治をしたい」
思わず呟いたとき、近くの八百屋の店主が声をかけてきた。
「兄ちゃん、また演説やるんだろ? 頼むよ、助成金の書類、わけが分からなくてさ」
笑って返しながら、僕は思った。
AIはこの声を「サンプル」として分類するだろう。
けれど僕にとっては、「生きた一人の願い」だ。
その夜、POLITYが通知を出した。
『政策案Bを修正しました。助成金手続き簡略化プランを統合します』
AIは確かに有能だった。
でも僕の中で、何かが静かにずれていくのを感じた。
決断の夜
数日後、政党の担当者が事務所を訪れた。
スーツの折り目が真っすぐで、笑顔がビジネスの匂いをまとっている。
「我々の推薦を受ければ、広報体制も支援できます。
ただし、政策表現の調整をお願いしたい。現実的な範囲でね」
彼が置いていった書類には、赤い修正線がいくつも走っていた。
“すべての人に居場所を”という僕の言葉の横に、
「社会的弱者への支援強化」と赤字が書かれている。
それは正しい表現かもしれない。
けれど、あの夜、真帆と駅前で語り合った“理想”の音が、そこにはなかった。
真帆が言った。
「その文、あなたの声じゃない」
「……分かってる。でも、現実には通さないと意味がない」
「意味を作るのは、通すことじゃなくて、信じることじゃない?」
言葉が詰まった。
机の上のAIが、沈黙している。
POLITYが何かを解析しているのか、青い光がゆっくり瞬いていた。
『推薦を断る場合、勝率は34%に低下します』
その声を聞いて、僕は笑った。
数字が現実を語るわけじゃない。
けれど、数字の重さを無視もできない。
再び、駅前へ
翌朝。
僕は無所属のまま、駅前に立った。
真帆が隣にいて、いつものようにマイクを持ってくれる。
冷たい風が頬を切る。だが、不思議と心は静かだった。
「おはようございます。
僕は、どの組織にも属していません。だからこそ、言えることがあります。
誰かの利益ではなく、あなたの暮らしのために。
誰かの声ではなく、あなたの声で、この街を動かしたい」
マイクの先で、数人の人が足を止めた。
真帆が小さくうなずく。
その横で、POLITYがスマホの画面に一行だけ表示した。
『分析不能:感情パラメータ過大。演説の影響値を計測できません。』
僕は小さく笑った。
「そうか。AIにも分からないものが、ようやく見えてきた」
光の中で
夕暮れ、演説を終えた僕らのもとに、小学生くらいの子どもが近づいてきた。
「さっきの話、かっこよかった!」
その一言が、どんな支援よりも嬉しかった。
真帆が笑って、僕の背中を軽く叩いた。
「ねえ、数字じゃ測れないこと、いっぱいあるでしょ?」
「……ああ、あるな」
遠くで駅のチャイムが鳴る。
街の明かりが灯り始め、人の流れが再び動き出す。
僕は、もう一度マイクを握った。
「今日も、あなたの声を聞かせてください」
群衆の中から拍手が起こる。
AIは何も言わなかった。
ただ、画面の片隅に小さな文字が光っていた。
『信念、継続中。』